◆11月2日 22:40 p.m レニエフ大統領府
「指定する日時に大統領府に出向する事。話しておく事がある。」
会議でソフィーヤにこう伝えられたのは3日前だった。野党議員から『伏魔殿』と呼ばれる大統領府から外に出ず、少々の国事と閣僚会議、そして他国代表との会議にしか姿を見せない彼――ブラゴヴォリン大統領――からの直々の命令。
あの件か、それともあの問題か。それとも・・・。ソフィーヤの頭を抱え込んでいる問題がぐるぐる回る。明確な答えは出ないが、あまり歓迎できない案件である事は確かだった。
霧雨の中を黒塗りの官用車が進む。昨晩まで降った雪は止み、あまりに冷たい外気に温さすら感じる雨と混じり道を黒く染める。
『伏魔殿』。誰が名づけたか知らないが的を射た名前だと思う。幾重にも重なる壁に囲まれた無機質な建造物は、雨に濡れその黒い姿を重たげに見せている。
――自分が大統領になったら建て替えたいものね
ふと湧き上がる妄想に苦笑する。首相という肩書きですら重いのに、国家元首なんて職業は金輪際お断りだ。
「お待ちしておりました、ブチェンコフ首相」
秘書官が止まった車の後部ドアを開ける。
着いてしまったか、と小さく溜息。我等が国父の館は今日も張り詰めた空気を湛えている。
「お待たせ。大統領はどこでお待ちかしら?」
「猟奇殺人の専門捜査チームを大統領府の管轄に移せ」
老人の指示はこれだけだった。
「安保問題、北部再開発、軍備再編・・・君には今後更に動いてもらう必要がある。私は君に国政に集中してもらたい。」
そんな事ができるだろうか。『彼女』が共和国史上最悪の猟奇殺人に関わっているのだ。・・それも自分のせいで。この件から外れる訳にはいかない。
「・・国民の安寧を護る為重要な職務だと認識しておりますが。」
「一国の代表が関わるような問題ではない。警察組織が無能であるなら指揮を執るべきは大統領府だ。」
「しかし、私が陣頭に立ち凶悪犯罪への不退転の決意を見せる事こそこの問題には必要です。」
ソフィーヤの声を掻き消すように大統領が口を開く。
「時に・・・君の妹さんは元気かね?」
「え・・・?」
その一言でソフィーヤは自分の見立てが甘かった事を痛感する。この老人は全てを知っている。私の過去も、『彼女』の事も。―そして今私が置かれている状況も。
驚いたかね、と老人はソフィーヤの顔色を窺うように聞く。
「年を取ると周りの噂話ばかり良く耳に入ってね。君の知り合いがこの事件に関わっている可能性があるのも聞いているよ。」
ソフィーヤに背を向け外の様子を見る。介入戦争の頃は『闘士』やら『狩人』やらと呼ばれ社会主義者から悪鬼の如く扱われていたが、人間は老いるものだ。老人の背中は小さく見えた。
「ソフィーヤ、君はこの件には関わらないべきだ。リリスの道、だったかな?・・君が彼等と関わっていた事が露見すれば、君の政治生命はここで絶たれる事になる。一端に中堅諸国に名を連ねているとは言え、この国はまだ問題が山積している。これを解決するには君の手腕が必要だ。」
「ドルギシキンもドルゴラプテフも、その分野での才はあれど、国を一つに纏め上げ、市民を鼓舞する力は遂に発揮できなかった。野党の連中も我々を批判こそすれど碌な公約も出さない無責任な集団だ。」
大統領がこちらを振り返る。
「私は君の政治生命、そしてこの国の未来を考えて命じている。直ちに捜査チームを大統領府の指揮下に移したまえ。」
(・・流石はヴァリニールを独立に導いた大人物、と言ったところか。)
ソフィーヤは否と言わせぬその気迫に従うのが得策であると判断した。
一礼してドアに手をかけると、老婆心ながら・・・、と引き止めるように老人が話す。
「RCIと警察は大統領府の下に置かれるが、軍部への干渉は行わない。・・これを忘れないことだ。」
「・・軍部にも特殊組織があると聞きましたが、それはよろしいので?」
「正規の捜査組織でない部分にケチは付けんよ。それだけだ。」
彼の掌で踊らされているようで釈然とはしないが、貴重な情報を無碍にする訳にもいかない。
「・・ご助言、感謝しますわ。」
大統領府が軍部に干渉できないのならば、彼等を使って独自にこの事件の黒幕を捜す事ができる。
『彼女』は私を求めて殺戮に手を貸している。ならば私が『彼女』を止めるしかない。
(軍部の人間といったら・・彼しかいないわね)
彼女のIceMobileの画面には、一人の軍人の名が打ち込まれていた。