2009年8月30日日曜日

人物(2)

ヘンルィク・ゴルベンコ
共和国内閣官房長官。
反共主義組織のメンバー時代は「瞬間湯沸かし器」とも渾名された血気盛んな青年であったが、現在は冷静かつ行動力のある政治家として広く知られる。

ゴシップ記事に反共主義組織時代に起こした傷害事件を取り沙汰され一大スキャンダルとなった時、発行会社の玄関前で拳銃自殺をしようとしたエピソードはあまりにも有名。(本人は「会心の演技だった」とコメント)

 

 

 



エヴグラーフ・H・ドルグシキン
共和国内務大臣。レイリルのとある大学で客員教授を務めた知外派。
古典的な経済政策を主張し度々ブチェンコフと衝突するが、プライベートでは「先生」と慕われる間柄であり、彼女の舵取りを内政面からサポートする。

 

 

 

 

フェドート・ドルゴラプテフ

共和国外務大臣。ブチェンコフの大学時代の級友としても知られる。

外交面では本来門外漢であるブチェンコフが介入戦争時代に成果を挙げられたのは彼の手腕による処が大きいとも。

 

 

 

 

ニコライ・ゲオルギエフスキー
共和国陸軍大将。東方軍管区司令官。
介入戦争では国内軍第1軍団を指揮。耳触りの良い声で部下に指示を出す事で知られ、「詩吟将軍」と称された。
知矢派としても有名。

 

 

 

 



フェーリクス・グレシネヴィコフ

共和国陸軍大将。西方軍管区司令官。
介入戦争に第12歩兵師団長として従軍。常に最前線に立ち、8度の負傷を経験。英雄勲章を2回授与された勇者。
コサック軍司令官ベスフメリニツィン、第1軍団司令官ゲオルギエフスキー、そして第2軍団司令官ブラゴヴォリンと並んで介入戦争の英雄と称される。
古きよきヤード人といった趣のある大男。粗暴だが人情に厚く、多くの将兵に慕われる。

ヴァリニールの企業

・AvtoKeNR
ヴァリニールで最大規模の自動車製造会社。
主に重車両を中心に事業を展開。高出力と簡潔な車体構造、信頼性・経済性の高さ、そして大きな輸送力を売りとしており、国内はもちろん新興国を中心に数多くの国家で使用されている。
軍用車両としても多く利用され、その信頼性・経済性の高さからなどから兵員輸送車、レーダー車両やロケット砲・ミサイルのプラットホーム等、様々な国、範囲で採用の実績を持つ。

・K・Fドルジエフ記念ジデンコ機械製造設計局
ヴァリニールの国営軍需企業。VT-79・VT-81等の主力戦車を含むヴァリニール陸軍の戦闘車両の設計・製造を手がける。
矢連邦時代はDST-11、SPC-5等の組み立てを請け負い、重要な生産拠点として活動した。
ヴァリニール軍の装備の特徴として、共産圏装備特有の良好な生産性・整備性を受け継ぎつつ、爆発反応装甲、火器管制装置等の新技術を搭載し、また微妙な外交バランスを反映して自由主義諸国で一般的に採用される砲弾、弾丸に対応している事が挙げられる。

2009年8月28日金曜日

リヴィエリト介入戦争(案)

◆アムリヤスク介入戦争(案)
アムリヤスク介入戦争(Amuriyask Intervention War、2000年‐2007年)は、6月暴動による西ヴァリニール自由共和国政権発足後に、ヴァリニール東西の統一をめぐって同地で行われた戦争である。
形式的には西ヴァリニール共和国=アムリヤスク民主主義人民共和国間の戦争だが、実際はヤードゴニエ社会主義共和国連邦とウィルバー合衆国、リルバーン帝国、三洲連合共和国、ルージェノワール王国に代表される反共主義勢力の対立を背景とした『代理戦争』の様相を呈した。


◆年表
1997年:反共革命同盟軍がダヴイドフグラードを解放。「西ヴァリニール自由共和国」として分離独立を宣言(10月)


1998年:国連安全保障理事会、ヴァリニール平和維持軍を派遣(5月~翌年11月)


1999年:リルバーン帝国が自由共和国に軍事顧問団を派遣(1月)、ヤードゴニエ社会主義共和国がこれを非難、アムリヤスク民主主義人民共和国にアムリヤスク治安維持作戦群を派遣(6月)

2000年:アムリヤスク人民解放軍が非武装地帯を突破。交戦状態に突入(2月)、アクショネンコ自由共和国大統領暗殺(9月)、ベルデンニコフが戦時大統領に就任(10月)

2001年:ディルタニア内海事件(3月)、リルバーン帝国の本格派兵始まる。ヤードゴニエ社会主義共和国が『西ヴァリニール偽政府の武力鎮圧』を表明(6月)、複数の国家が派兵を開始。

2002年:労農赤軍アムリヤスク治安維持作戦群がレニエフを制圧(1月)、ブチェンコフ女史による対外支援交渉が始まる(5月)、自由共和国が領土の20%を喪失(7月)

2003年:リルバーン帝国が東爆を開始(1月)、アムリヤスク人民解放軍がレムストポリを包囲(3月)、自由主義諸国による自由政府支援が活発化。
2004年:シー・ロード作戦発動。アムリヤスク人民解放海軍が事実上の壊滅。レムストポリの海上補給が回復(2月)、ヤードゴニエ社会主義共和国が部隊を増派(6月)、神州人民共和国・大日照民主共和国がアムリヤスク民主主義人民共和国に軍事支援を開始(7月)

2005年:レムストポリの戦い。ブリュハノフ将軍麾下の増強兵団がヤード・アムリヤスク軍を撃退(4月)、ヴィンニンツァ攻勢。コサック軍がレニエフを奪還し、開戦前の国境まで戦線を回復(10月)

2006年:エニプエル川の戦い。ヤードゴニエ海軍歩兵部隊が西ヴァリニール軍の進撃を阻止(3月)、ヤードゴニエ社会主義共和国が段階的な撤兵を開始(8月~)、ベスフメリニツィン作戦。国内軍第2軍団がエニプエル川を渡河しアムリヤスク臨時首都エネリツクの20km前面に到達(10月)

2007年:オーラム協定締結(4月)、リルバーン・ヤードがヴァリニールからの撤兵を完了、自由政府が攻撃を再開(6月)、エネリツク陥落。アムリヤスク民主主義人民共和国崩壊。(12月)


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西ヴァリニール自由共和国軍

6月暴動を口火に蜂起した反共勢力の各戦闘部門を統合した組織。
慢性的な兵力不足、近代化の遅れなどが目立ち、1999年に派遣されたリルバーン軍事顧問団の幹部が「もしLAにおけるヤードゴニエの被害がもっと軽微だったなら、彼等は片手間で鎮圧されていただろう」と手記に記す程の杜撰な状態であった。
初期は共産圏の小銃、対戦車無反動砲等を中心としたゲリラ戦術を採用していたが、年次が進むにつれウィルバー合衆国、三洲連合共和国等の軍事支援は規模を拡大し、終戦時には戦車・装甲車等の正面装甲戦力はもちろん、各種火砲、歩兵携行装備、更には戦闘機を保有するまでに至る。

アムリヤスク人民解放軍

アムリヤスク民主主義人民共和国の国軍。総兵力は28万6000人。
ヤードゴニエからの援助もあり、装甲戦力・制空部隊等も保有していたが、優秀な指揮官の欠落、士気の低さ、人海戦術への固執により実質的な戦力としては非常に脆弱であった。
労農赤軍の本格派兵が始まってからは2線級部隊として扱われ、後方の警戒、戦線の増強等の副次的な任務に充てられた。

リルバーン帝国軍事顧問団
ディルタニア大陸有数の大国として君臨していた「帝国」リルバーン。LA後混迷を極めたユークトバニア地域に出兵し、エステルプラッテを併合するなど、ディルタニア大陸における反共勢力の主役として立ち回る事となった。
リルバーン首脳部はアムリヤスク分裂の当初から自由政府の支援を決定していたが、安武皇国主導によるヴァリニール平和維持軍の存在もあり、大々的に兵力を送る事は不可能となり、代替的な支援として派遣された総勢500名の軍事顧問団は自由政府軍の教育訓練を行うと共に、同軍の兵力不足を補うべく活動した。
平和維持軍が撤退した後は西ヴァリニール軍事支援司令部へと改変され、自由政府軍の近代化を積極的に支援する事に。

リヴィエリト治安維持作戦群
LAの被害により6月暴動には介入出来なかったヤードゴニエであったが、国力の回復とリルバーンの軍事顧問団派遣に伴い、2000年1月までに14万人規模の治安維持部隊を派遣した。
この14万人には完全充足の4個機甲師団、8個機械化歩兵師団、また連邦国家保安人民委員部の特殊部隊も含まれ、ヤード撤兵まで非常に高い能力を発揮した。

ヴァリニール平和維持軍

安武皇国・クラトニア共和国・ローゼンクロイツ民主共和国の国軍を中核とした国連軍。11カ国が参加し6万3000人規模で平和維持任務に就いた。
このPKF派遣はヴァリニールの平和維持という名目で展開されたが、実際はリルバーン・ヤードゴニエに対する牽制的処置という側面も大きく、事実平和維持軍が展開中同地の治安状況は非常に良好であった。
しかし、参加国の中にはLAの被害から立ち直っていない国も多く、結局18ヶ月で国連軍は撤退する事になる。

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・ディルタニア内海事件
アムリヤスク海軍の巡視艇がリルバーン海軍の駆逐艦に3発の魚雷を発射、交戦状態に突入した事件。
この事件を契機にリルバーン帝国は本格的な派兵を始め、2003年までには約19万2000名もの兵力がヴァリニールに送られた。

・第1次レニエフの戦い
自由政府首都レニエフ(旧名ダヴイドフグラード)を巡って自由共和国軍、矢連邦アムリヤスク治安維持作戦群が交戦。
レニエフの空軍基地に特殊部隊を空挺降下させ、航空兵器を無力化させるとともに迅速な機動で自由政府軍の防衛線を突破。無防備都市宣言を行ったレニエフに入城する。
当時貧弱な対空火器しか保有しなかった自由共和国軍にレグヤンDTH-3を中心とする戦闘ヘリが猛威を振るい、この前後で自由政府領の20%を奪取する事に成功した。

レニエフに入城する矢連邦陸軍第78機械化歩兵師団の歩兵輸送車

・シー・ロード作戦
緒戦の敗退で6個陸軍師団・アムリヤスク海軍に包囲されていた軍事都市レムストポリを救援するべく、リルバーン帝国海軍、自由人民艦隊、三州連合共和国の潜水艦数隻による連合艦隊がリヴィエリト第1、第2艦隊を攻撃。
リルバーン、三州艦隊のミサイルによる飽和攻撃によりアムリヤスク海軍が壊滅。空路による危険な物資輸送しか出来なかったレムストポリの海上補給路が回復し、ブリュハノフ将軍麾下の増強兵団がレムストポリに送られる。11ヶ月に及ぶレムストポリ陥落の危機は去り、これを機に自由共和国軍は優勢へと転ずる。

・レムストポリの戦い
シー・ロード作戦の後も依然として市街地を包囲していたアムリヤスク陸軍が、神州人民共和国・大日照民主共和国等の軍事支援と治安維持作戦群の増強を受けレムストポリを攻撃。
ブリュハノフ増強兵団は巧妙に構築した防衛線と海軍・空軍の協力でこの攻撃をはじき返し、攻勢軍に多大な損害を与える。
この後、レムストポリ制圧は無期延期にされ、結局アムリヤスク軍は終戦までにレムストポリを落とす事が出来なかった。

戦闘によって破壊されたレムストポリ市街地

A・H・ブリュハノフ
自由共和国陸軍少将(当時)、ブリュハノフ増強兵団指揮官
卓越した防御戦術理論の持ち主として矢連邦軍時代から注目を浴び、自由政府に参加した後はエレーサの防衛を指揮。
シー・ロード作戦によりレムストポリとの連絡が回復すると2万4000名の増強兵団の指揮官としてレムストポリに入城、以後同市の防衛を監督する。
2005年のレムストポリ攻撃では巧妙に構築された防衛線と貴重な装甲戦力の有効活用によりレムストポリを死守。英雄と称された。
現在は第4軍団司令官。



・ヴィンニンツァ攻勢
自由共和国軍によるヴィンニンツァ方面への攻勢作戦。
第1コサック軍以下、リルバーンによる教育と各国の支援で高度に近代化された共和国軍がアムリヤスク軍の防衛線を突破し、矢連邦軍の側面を脅かす。
包囲殲滅を恐れた矢連邦第19軍がエニプエル川まで後退。以後防衛に注力する。
この攻勢により、2005年10月には戦線を開戦当時の国境線に押し戻す事に成功。

中央平原を進撃する第1コサック軍所属の戦車旅団

リルバーン帝国軍による集中的な教育と各国の援助により自由共和国軍の切り札となった第1コサック軍。
彼等は共産圏の改造戦車から三州、ウィルバー製のものまで「戦闘車両」と名のつく物は全て利用し、軍容は非常に多彩であった。

・第2次レニエフの戦い
第3コサック軍がレニエフを守備中のアムリヤスク第9、第12師団を攻撃。
後方を遮断された防衛軍は大した抵抗もせず降伏。

・エニプエル川の戦い
ヴィンニンツァ攻勢の後も有利に戦闘を続けていた自由共和国軍と精鋭の誉れ高いヤードゴニエ海軍歩兵部隊がエニプエル川を挟んで対峙。
海軍歩兵部隊の弾性防御と空軍の航空支援に阻まれ進軍を停止。この膠着状態はヤードゴニエ社会主義共和国が段階的な撤兵を開始するまで続く。

矢連邦海軍歩兵

独自の装甲戦力こそ乏しかったが、その練度と良好な指揮統制はいわば「急ごしらえ」の自由共和国軍の攻撃を見事に阻み、「青い鬼」と恐れられた



・ベスフメリニツィン作戦
国内軍第2軍団が矢連邦軍から任務を引き継いだアムリヤスク軍部隊を攻撃。
エニプエル川の渡河に成功し、年末にはアムリヤスク臨時首都エネリツクの20km前面にまで到達。

エネリツクに向けて進撃する第34自動車化連隊

・オーラム協定締結
ウィルバー合衆国首都、オーラムD.A.にて和平協定成立。
ヴァリニールに展開中の全外国軍がこれにより撤収。
オーラム協定の締結から2ヵ月後に自由共和国軍は攻撃を再開、エネリツク陥落。アムリヤスク民主主義人民共和国が崩壊。

2009年8月27日木曜日

設定:アルテブリュガース

アルテブリュガース
エレーサの北方に位置する都市。
アルテブリュガース原子力発電所事故により放射性物質に汚染されゴーストタウンと化した。現在は「立ち入り制限区域および強制(義務的)立ち退き区域」に指定。
人間が再び居住出来る様になるには数世紀必要と言われるが、発電所の周囲には自然が戻り、皮肉にも希少生物の数が増えつつある。

アルテブリュガース原子力発電所

事故時の正式名称は「S・D・ベリヤ共産主義記念アルテブリュガース原子力発電所」。現在は「アルテブリュガース原子力発電所」と改称。
1975年から一号炉が竣工。5つのプラントで構成され、合計で矢連邦の原子力発電量の20%を占めていた。
1990年4月23日午前2時41分に四号炉がメルトダウンの後爆発。放射性降下物がヴァリニール・ヤードゴニエ・旧トラインデルトを中心にディルタニア大陸広域を汚染する事故を起こした。
ヤード政府は住民のパニックや機密漏洩を恐れ、この事故を隠蔽。この事故が正式に世界に公表されたのは事故発生から6年後の1996年であった。近隣住民の健康被害、環境への影響、政治的・経済的ダメージは現在も正確に把握されていない。
この規模の原発事故は他に例がなく、世界の原子力開発の歴史の中で最悪の事故と言われている。

四号炉を覆う「石棺」

事故を起こした四号炉は現在コンクリート製の建造物に覆われているが、老朽化が著しく、補修が急がれる。

2009年8月26日水曜日

国内の人物

グリゴリー・ブラゴヴォリン
共和国初代大統領。閉鎖的であったリヴィエリトにおいてウィルバー合衆国で政治学・軍事学を学んだ数少ないインテリ。国外から反共主義勢力を支援し、6月暴動が始まるとともに帰国、ヴァリニール国内軍第2軍団を指導。有能な野戦指揮官として、また自由主義諸国との重要なパイプとして自由共和国政府のナンバー2としての地位を確立する。
ヴァリニール共和国成立後、「ヴァリニール自由党」を結成。第1回大統領選挙で見事当選を果たした。
眼鏡をかけた穏やかな風貌の男だが、内戦時には苛烈な戦争指導で知られた。民主主義の闘士として国民の絶大な支持を受ける。


ソフィーヤ・ブチェンコフ

共和国初代首相。ヴァリニール・コサックの父とヴァリニリア人の母を持つ。国家プロジェクトの一環としてルージェノワール王国に留学、経済学を学ぶ。
6月暴動時はコサック系組織を指導。自由政府の対外交渉を任せられ、ウィルバー合衆国の仲介を取り付ける事に成功する。
共和国成立後はコサック系コミュニティーの指導者となり、大統領選においてブラゴヴォリンを強力に支持。ブラゴヴォリン勝利の原動力となった。
現在はブチェンコフ大統領の下首相を務め、国内産業の復興、安全保障の確立等の激務に追われる事に。
留学時代にルージェノワールの華美な服に心を奪われ、以降フリルを愛好するようになったとか。
人民服の一団の中で一人ドレスを着て和平会議に出席した事で知られ、それをキッカケに国外にも広く知られるようになる。



V・C・ジャシチェフスキー
自由人民艦隊司令官。最終階級は自由政府海軍大将。
リヴィエリト人民解放海軍レムストポリ艦隊の司令官としてエレーサ砲撃の命を受けるが、市民に対する無差別攻撃を拒否。ヴァリニール全土に決起を促す放送を行う。
西ヴァリニール自由共和国が成立するとこれに帰順。自由人民艦隊の司令官に任命され、ヤード海軍と交戦する。
彼自身はヤード介入後2年で戦死するが、練習艦に名を残す等、ヴァリニール反共革命のキーマンとして記憶される一人。




アルセニー・ベスフメリニツィン
共和国軍統合参謀総長。内戦時はヴァリニール解放コサック軍を指揮。
彼の率いるコサック軍は6月暴動でダヴイドフグラード(レニエフ)を解放し、介入戦争では唯一の機械化軍として多くの犠牲を払いながら勝利に貢献し、英雄として祭り上げられた。
無口で頑固な老人であり、コサックの地位向上を強く訴えている。

国家設定

ヴァリニール共和国

国の標語:全ヴァリニール人の自由の堅持
国歌:悠久のヴァリニール
公用語:ヴァリニール語
首都:レニエフ
最大都市:レニエフ
国家元首:グリゴリー・ブラゴヴォリン
首相:リーリヤ・ブチェンコフ
通貨:カルボーヴ(VC)

☆主要都市

首都:レニエフ
旧名ダヴイドフグラード。ヴァリニール共和国首都。
主要政府組織の大半を有する政治の中心地。

エレーサ
共和国南部の港湾都市。重要な貿易港を持ち、またこれまでの歴史上様々な国の支配を受けてきたため、非常に国際色豊かな都市となっている。

レムストポリ
ディルタニア内海に面したリゾート都市。古来は軍港都市・商港都市として栄えた。

☆政治
議会制民主主義。

☆経済
レムストポリ革命とアムリヤスク介入戦争の結果、国内の産業基盤は壊滅。
政府は自由経済を指標としているが、市場への介入を余儀無くされている。

☆産業
豊富な資源、肥沃な穀倉地帯を有する資源国。
矢連邦時代は造船や鉄鋼業、製油業等の重工業が発達するが内戦により産業は荒廃。
ブチェンコフ政権は国内産業の復興を第一に掲げている。

☆教育
6歳から17歳までの11年間を義務教育とする。

☆人種
ヤード系のヴァリニリア人、北部のヴァリニール・コサックが中心。

☆宗教
ヴァリニール東方正教が主流。

☆国内情勢
アムリヤスク社会主義連邦共和国としてヤードゴニエ社会主義共和国連邦の一領邦として扱われる。
豊富な地下資源と豊かな穀倉地帯で知られ、ヤードゴニエ全体の産業と農業を担う重要な地域の1つであった。
Lost Artemisを契機に矢連邦から独立。アムリヤスク民主主義人民共和国となる。
独立を果たしたアムリヤスク人民共和国であったが、時代に即さない農業集団化などの失策が続き、反体制感情が西部を中心に燻り始める。
政府は3軍を動員した粛清に乗り出すが、エレーサの沿岸砲撃を命令されたレムストポリ艦隊が反乱を起こすと共に、艦隊司令官V・C・ジャシチェフスキー海軍中将が全ヴァリエール人民の決起を促す放送を行う。
これに西部の反共主義者、農民、抑圧されていたヴァリエール・コサックが呼応し、大暴動となる。(6月暴動)
ヴァリニール国内軍、白色革命軍、ヴァリニール解放コサック軍等の反共革命同盟軍はダヴイドフグラードを含む西リヴィエリトを解放しヴァリニール自由共和国を設立。
矢連邦政府は「西ヴァリニールの反革命武装蜂起の鎮圧」としてヤードゴニエ労農赤軍を派遣。自由主義諸国から秘密裏に支援を受けた自由共和国軍との間で戦争状態に突入する。
最終的にはウィルバー合衆国の仲介により和平が成立し、ヴァリニールの反共革命は成功裏に終結するが、およそ7年に渡る国内戦は国内の産業・経済を破壊し、独立国家として最悪の状態でスタートを迎えた。