◆アムリヤスク介入戦争(案)
アムリヤスク介入戦争(Amuriyask Intervention War、2000年‐2007年)は、6月暴動による西ヴァリニール自由共和国政権発足後に、ヴァリニール東西の統一をめぐって同地で行われた戦争である。
形式的には西ヴァリニール共和国=アムリヤスク民主主義人民共和国間の戦争だが、実際はヤードゴニエ社会主義共和国連邦とウィルバー合衆国、リルバーン帝国、三洲連合共和国、ルージェノワール王国に代表される反共主義勢力の対立を背景とした『代理戦争』の様相を呈した。
◆年表
1997年:反共革命同盟軍がダヴイドフグラードを解放。「西ヴァリニール自由共和国」として分離独立を宣言(10月)
1998年:国連安全保障理事会、ヴァリニール平和維持軍を派遣(5月~翌年11月)
1999年:リルバーン帝国が自由共和国に軍事顧問団を派遣(1月)、ヤードゴニエ社会主義共和国がこれを非難、アムリヤスク民主主義人民共和国にアムリヤスク治安維持作戦群を派遣(6月)
2000年:アムリヤスク人民解放軍が非武装地帯を突破。交戦状態に突入(2月)、アクショネンコ自由共和国大統領暗殺(9月)、ベルデンニコフが戦時大統領に就任(10月)
2001年:ディルタニア内海事件(3月)、リルバーン帝国の本格派兵始まる。ヤードゴニエ社会主義共和国が『西ヴァリニール偽政府の武力鎮圧』を表明(6月)、複数の国家が派兵を開始。
2002年:労農赤軍アムリヤスク治安維持作戦群がレニエフを制圧(1月)、ブチェンコフ女史による対外支援交渉が始まる(5月)、自由共和国が領土の20%を喪失(7月)
2003年:リルバーン帝国が東爆を開始(1月)、アムリヤスク人民解放軍がレムストポリを包囲(3月)、自由主義諸国による自由政府支援が活発化。
2004年:シー・ロード作戦発動。アムリヤスク人民解放海軍が事実上の壊滅。レムストポリの海上補給が回復(2月)、ヤードゴニエ社会主義共和国が部隊を増派(6月)、神州人民共和国・大日照民主共和国がアムリヤスク民主主義人民共和国に軍事支援を開始(7月)
2005年:レムストポリの戦い。ブリュハノフ将軍麾下の増強兵団がヤード・アムリヤスク軍を撃退(4月)、ヴィンニンツァ攻勢。コサック軍がレニエフを奪還し、開戦前の国境まで戦線を回復(10月)
2006年:エニプエル川の戦い。ヤードゴニエ海軍歩兵部隊が西ヴァリニール軍の進撃を阻止(3月)、ヤードゴニエ社会主義共和国が段階的な撤兵を開始(8月~)、ベスフメリニツィン作戦。国内軍第2軍団がエニプエル川を渡河しアムリヤスク臨時首都エネリツクの20km前面に到達(10月)
2007年:オーラム協定締結(4月)、リルバーン・ヤードがヴァリニールからの撤兵を完了、自由政府が攻撃を再開(6月)、エネリツク陥落。アムリヤスク民主主義人民共和国崩壊。(12月)
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6月暴動を口火に蜂起した反共勢力の各戦闘部門を統合した組織。慢性的な兵力不足、近代化の遅れなどが目立ち、1999年に派遣されたリルバーン軍事顧問団の幹部が「もしLAにおけるヤードゴニエの被害がもっと軽微だったなら、彼等は片手間で鎮圧されていただろう」と手記に記す程の杜撰な状態であった。
初期は共産圏の小銃、対戦車無反動砲等を中心としたゲリラ戦術を採用していたが、年次が進むにつれウィルバー合衆国、三洲連合共和国等の軍事支援は規模を拡大し、終戦時には戦車・装甲車等の正面装甲戦力はもちろん、各種火砲、歩兵携行装備、更には戦闘機を保有するまでに至る。
アムリヤスク民主主義人民共和国の国軍。総兵力は28万6000人。
ヤードゴニエからの援助もあり、装甲戦力・制空部隊等も保有していたが、優秀な指揮官の欠落、士気の低さ、人海戦術への固執により実質的な戦力としては非常に脆弱であった。
労農赤軍の本格派兵が始まってからは2線級部隊として扱われ、後方の警戒、戦線の増強等の副次的な任務に充てられた。
リルバーン帝国軍事顧問団
ディルタニア大陸有数の大国として君臨していた「帝国」リルバーン。LA後混迷を極めたユークトバニア地域に出兵し、エステルプラッテを併合するなど、ディルタニア大陸における反共勢力の主役として立ち回る事となった。
リルバーン首脳部はアムリヤスク分裂の当初から自由政府の支援を決定していたが、安武皇国主導によるヴァリニール平和維持軍の存在もあり、大々的に兵力を送る事は不可能となり、代替的な支援として派遣された総勢500名の軍事顧問団は自由政府軍の教育訓練を行うと共に、同軍の兵力不足を補うべく活動した。
平和維持軍が撤退した後は西ヴァリニール軍事支援司令部へと改変され、自由政府軍の近代化を積極的に支援する事に。
リヴィエリト治安維持作戦群
LAの被害により6月暴動には介入出来なかったヤードゴニエであったが、国力の回復とリルバーンの軍事顧問団派遣に伴い、2000年1月までに14万人規模の治安維持部隊を派遣した。
この14万人には完全充足の4個機甲師団、8個機械化歩兵師団、また連邦国家保安人民委員部の特殊部隊も含まれ、ヤード撤兵まで非常に高い能力を発揮した。
このPKF派遣はヴァリニールの平和維持という名目で展開されたが、実際はリルバーン・ヤードゴニエに対する牽制的処置という側面も大きく、事実平和維持軍が展開中同地の治安状況は非常に良好であった。
しかし、参加国の中にはLAの被害から立ち直っていない国も多く、結局18ヶ月で国連軍は撤退する事になる。
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・ディルタニア内海事件
アムリヤスク海軍の巡視艇がリルバーン海軍の駆逐艦に3発の魚雷を発射、交戦状態に突入した事件。
この事件を契機にリルバーン帝国は本格的な派兵を始め、2003年までには約19万2000名もの兵力がヴァリニールに送られた。
・第1次レニエフの戦い
自由政府首都レニエフ(旧名ダヴイドフグラード)を巡って自由共和国軍、矢連邦アムリヤスク治安維持作戦群が交戦。
レニエフの空軍基地に特殊部隊を空挺降下させ、航空兵器を無力化させるとともに迅速な機動で自由政府軍の防衛線を突破。無防備都市宣言を行ったレニエフに入城する。
当時貧弱な対空火器しか保有しなかった自由共和国軍にレグヤンDTH-3を中心とする戦闘ヘリが猛威を振るい、この前後で自由政府領の20%を奪取する事に成功した。
レニエフに入城する矢連邦陸軍第78機械化歩兵師団の歩兵輸送車
・シー・ロード作戦
緒戦の敗退で6個陸軍師団・アムリヤスク海軍に包囲されていた軍事都市レムストポリを救援するべく、リルバーン帝国海軍、自由人民艦隊、三州連合共和国の潜水艦数隻による連合艦隊がリヴィエリト第1、第2艦隊を攻撃。
リルバーン、三州艦隊のミサイルによる飽和攻撃によりアムリヤスク海軍が壊滅。空路による危険な物資輸送しか出来なかったレムストポリの海上補給路が回復し、ブリュハノフ将軍麾下の増強兵団がレムストポリに送られる。11ヶ月に及ぶレムストポリ陥落の危機は去り、これを機に自由共和国軍は優勢へと転ずる。
・レムストポリの戦い
シー・ロード作戦の後も依然として市街地を包囲していたアムリヤスク陸軍が、神州人民共和国・大日照民主共和国等の軍事支援と治安維持作戦群の増強を受けレムストポリを攻撃。
ブリュハノフ増強兵団は巧妙に構築した防衛線と海軍・空軍の協力でこの攻撃をはじき返し、攻勢軍に多大な損害を与える。
この後、レムストポリ制圧は無期延期にされ、結局アムリヤスク軍は終戦までにレムストポリを落とす事が出来なかった。
A・H・ブリュハノフ
自由共和国陸軍少将(当時)、ブリュハノフ増強兵団指揮官
卓越した防御戦術理論の持ち主として矢連邦軍時代から注目を浴び、自由政府に参加した後はエレーサの防衛を指揮。
シー・ロード作戦によりレムストポリとの連絡が回復すると2万4000名の増強兵団の指揮官としてレムストポリに入城、以後同市の防衛を監督する。
2005年のレムストポリ攻撃では巧妙に構築された防衛線と貴重な装甲戦力の有効活用によりレムストポリを死守。英雄と称された。
現在は第4軍団司令官。
・ヴィンニンツァ攻勢
自由共和国軍によるヴィンニンツァ方面への攻勢作戦。
第1コサック軍以下、リルバーンによる教育と各国の支援で高度に近代化された共和国軍がアムリヤスク軍の防衛線を突破し、矢連邦軍の側面を脅かす。
包囲殲滅を恐れた矢連邦第19軍がエニプエル川まで後退。以後防衛に注力する。
この攻勢により、2005年10月には戦線を開戦当時の国境線に押し戻す事に成功。
彼等は共産圏の改造戦車から三州、ウィルバー製のものまで「戦闘車両」と名のつく物は全て利用し、軍容は非常に多彩であった。
・第2次レニエフの戦い
第3コサック軍がレニエフを守備中のアムリヤスク第9、第12師団を攻撃。
後方を遮断された防衛軍は大した抵抗もせず降伏。
・エニプエル川の戦い
ヴィンニンツァ攻勢の後も有利に戦闘を続けていた自由共和国軍と精鋭の誉れ高いヤードゴニエ海軍歩兵部隊がエニプエル川を挟んで対峙。
海軍歩兵部隊の弾性防御と空軍の航空支援に阻まれ進軍を停止。この膠着状態はヤードゴニエ社会主義共和国が段階的な撤兵を開始するまで続く。
独自の装甲戦力こそ乏しかったが、その練度と良好な指揮統制はいわば「急ごしらえ」の自由共和国軍の攻撃を見事に阻み、「青い鬼」と恐れられた
・ベスフメリニツィン作戦
国内軍第2軍団が矢連邦軍から任務を引き継いだアムリヤスク軍部隊を攻撃。
エニプエル川の渡河に成功し、年末にはアムリヤスク臨時首都エネリツクの20km前面にまで到達。
・オーラム協定締結
ウィルバー合衆国首都、オーラムD.A.にて和平協定成立。
ヴァリニールに展開中の全外国軍がこれにより撤収。
オーラム協定の締結から2ヵ月後に自由共和国軍は攻撃を再開、エネリツク陥落。アムリヤスク民主主義人民共和国が崩壊。
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